薬罐坂と呼ばれる坂道は、文京区小日向1丁目付近、同じく文京区目白台2丁目と3丁目の間、新宿区若葉三丁目付近、杉並区上荻2丁目付近の都内計4箇所にあります。いずれも暗く寂しい処で、何か出てもおかしくないような坂道でした。この坂を夜一人で通っていると、薬罐の化け物が転がって来る事から薬罐坂と呼ばれています。しかしその呼び名の由来は諸説あるようで、坂道の露出した赤土の色が銅薬罐の色に似ている事からであるとか、「やかん」とは野狐の事で、狐が出て化かしてもおかしくないような寂しい所だからとも謂われています。また隠語では日暮れに客を引く娼婦の事を薬罐と呼ぶらしく、岡場所近くで怪しい女性が出没する坂と謂う意味もあるようです。「お化け名所図繪」の薬罐坂は目白台にあった坂をイメージして制作されています。向かって右側に見えるのは松平出羽守邸の外壁、左側は矢場で、整地されてない雑木林部分が沢山あって、昼でも暗かったのでは?という想像を基にこのような繪に仕上げられています。あくまで想像の域を出ませんが、切繪図と現代の地図を見比べながら当時の光景に想いをはせるのは楽しい作業です。



現代でも不可思議な通り魔事件がニュースで報じられる事がありますが、江戸時代にも奇妙な事件が頻発しています。夜中に道を歩いていると、得体の知れない物に髪をバッサリと切られてしまうという、何とも恐ろしい事件が全国各地で起こりました。勿論江戸も例外ではなく、神田で金物屋の下女が、夜買い物に出かけて、何者かに髪を切られてしまいました。本人は宿に帰るまで気付かなかったと謂いますから、かなりの早業です。同じような怪は下谷にも現れました。こちらは朝、玄関の戸を開けようとした小女が被害に遭いました。いずれも姿を見た者はおらず、その正体については、狐、猫、カミキリ虫等、様々な推測がなされています。カミキリ虫は御存知の通り、強力な顎を持つ甲虫です。カミキリとは「髪切り」ではなく、おそらく強い顎でなんでも「噛み切る」事からつけられた名前です。幼虫は木を、成虫は新芽を食い荒らす害虫で、分布も広く、種類によって好む樹木も違う為、昔から対策には苦労してきました。木と共に暮らす日本人にとって、この虫はどうやらやっかい者のイメージが強いようです。このマイナスのイメージとカミキリと謂う名前から、髪切疑惑が浮上したのかもしれません。また、髪切事件には、親が決めた縁談が嫌で起こした、自作自演説というものまであります。髪は女性の命、それを切り落とし、自らを傷物と証する事でしか遂げられない想いというのも切ないです。事件の内容を伝えるのは、書物に残るほんの数行の文章ですが、様々な角度からスポットを当ててみると、また違った影が姿を現します。一つの物の怪騒動から、深い江戸の人の心の闇を垣間見る事が出来るかもしれません。